鞆の浦桝屋清右衛門宅龍馬の隠れ部屋

龍馬の隠れ家へようこそ

桝屋清右衛門宅に龍馬が泊まったワケ

「いろは丸事件」とは・・・ いろは丸事件が勃発した当時、各地の廻船(港から港へ貨物を運んで回る船)が立ち寄る鞆の浦は、潮待ちの港として栄えていました。その時代、桝屋清右衛門は土佐藩、大洲藩、薩摩藩などの商船と取引がありました。長崎の豪商 小曾根家は龍馬のよき理解者であり、当主の末弟・小曾根英四郎は積荷の仕切り役としていろは丸に乗っていました。小曾根家と桝屋は商取引があったと思われ、英四郎の仲立ちで桝屋を宿舎に定めたとも考えられています。

「いろは丸事件」とは・・・

桝屋清右衛門宅に龍馬が泊まったワケ 1867年(慶応3年)4月19日、坂本龍馬ら海援隊は大洲藩から借用した「いろは丸」に乗り込み長崎を出発しました。貿易商社「亀山社中」として、長崎から大阪へ荷物を運ぶための航海でした。その航海途上の4月23日深夜、現在の岡山県六島付近で「いろは丸」と紀州藩の軍艦「明光丸」が衝突。「いろは丸」の乗員は「明光丸」に乗り移り、大きく損傷した「いろは丸」を曳航(船をロープで引っ張ること)し、一路港湾施設の整った鞆港を目指しましたが途中で沈没してしまいました。鞆の浦に上陸してから4日間、龍馬たち海援隊は廻船問屋「桝屋清右衛門宅」へ、紀州藩は「圓福寺」に宿泊し、双方の宿泊先の中間地点の旅館「魚屋萬蔵宅」で談判を行いました。当時すでに幕府から命を狙われていた龍馬は「才谷梅太郎(さいたにうめたろう)」という名前をつかい桝屋に投宿しました。

ついに一般公開へ

桝屋清右衛門宅には「いろは丸事件の際に坂本龍馬がここに泊った」という伝承がありましたが長年その場所は確認されていませんでした。1989年、「坂本龍馬は屋根裏部屋に泊った」との言い伝えから地元の有志が天井を調査したところ、1カ所だけ天井板が外れ、隠れ部屋が発見されました。部屋は当時のまま手つかずで残されていましたが、ほこりや傷みがひどく、また、天井裏へ通じる階段もないことから、一般に公開できる状態ではありませんでした。2010年、広島県などの補助金を利用し整備を進め、同年11月に特別限定公開、翌2011年4月からはひろく一般公開することとなりました。今後も龍馬の生きた時代の桝屋に向け、整備する予定です。1歩ずつ変わりゆく桝屋にご期待ください。
ついに一般公開へ

龍馬の隠れ部屋 桝屋清右衛門宅に龍馬が泊まった証

龍馬の隠れ部屋 桝屋清右衛門宅に龍馬が泊まった証 桝屋清右衛門宅に龍馬が泊まった証。それは龍馬と紀州藩側の賠償交渉の経過が記された「備後鞆津応接筆記」に残っています。この文書は「備後鞆津ニ於テ才谷梅太郎紀州高柳楠之助等ト應接筆記」とあるもので、鞆の浦(鞆津)での交渉経緯が記され、朱筆で訂正が入っています。坂本龍馬は「才谷梅太郎」という名で、交渉に臨み、石井町※にある桝屋清右衛門宅に宿泊した旨が下記の文章から確認できます。
※(注)桝屋周辺の町名

龍馬の隠れ部屋 桝屋清右衛門宅に龍馬が泊まった証